図越組の起源と現在|京都七条から会津小鉄会を支えた組織の真相

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図越組の起源と現在|京都七条から会津小鉄会を支えた組織の真相
図越組の起源と現在|京都七条から会津小鉄会を支えた組織の真相
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🎵 図越組の起源と現在|京都七条から会津小鉄会を支えた組織の真相

古都・京都の近現代史において、治安の表と裏が交錯する激動の時代に強烈な足跡を残した組織が「図越組(ずこしぐみ)」です。戦後混乱期の混乱を背景に誕生し、やがて名門博徒組織「会津小鉄会」の再興と中核を担う存在へとのし上がったこの組織は、いったいどのような軌跡をたどり、2026年の現在どのような結末を迎えているのでしょうか。

創始者である図越利一(ずこし・りいち)氏のカリスマ性、実子である図越利次(ずこし・としつぐ)氏による五代目継承、そして「七条警察署襲撃事件」に代表される警察権力とのただならぬ関係など、ネット上には数多くの逸話と誤解が散見されます。報道各社の記録や警察庁の統計、関係者の証言をもとに、図越組の起源から組織の真相、最新の組織勢力の実情までを客観的ジャーナリズムの視点から徹底検証します。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 要点1:図越組は戦後、図越利一氏が京都・七条を拠点に結成した組織であり、1975年の「三代目会津小鉄会」再興の母体となった。
  • 要点2:1946年の「七条警察署襲撃事件」で警察側を支援した特異な出自を持ち、昭和から平成にかけて京都裏社会の頂点に君臨した。
  • 要点3:2026年現在、図越組としての独立した活動は実質的に終息しており、母体である会津小鉄会自体も構成員約40人規模へと急減している。

【起源と由来】京都・七条から始まった「図越組」の歴史と図越利一の台頭

図越組の歴史を紐解くうえで欠かせないのが、創設者である図越利一(1913年9月17日 - 1998年7月7日)の存在です。京都市下京区、京都駅北側に位置する「七条」周辺は、戦前から戦後にかけて交通の要衝であり、ヤミ市や歓楽街が密集する混沌としたエリアでした。この地で頭角を現した図越利一は、博徒系組織「中島会」の系譜を継ぎながら、自らの名を冠した「図越組」を結成します。

組織の名称の由来は文字通り図越利一の姓に由来しますが、当時の京都において「図越」の名は単なる一組織の看板を超えた重みを持ちました。特に戦後の混乱期、武装した勢力や不法行為を行う集団が跋扈(ばっこ)するなか、警察力の弱体化に悩む官憲と結びつきを強めたことが、図越組の勢力伸長における最大の契機となります。

その決定的な舞台となったのが、1946年1月に発生した七条警察署襲撃事件です。ヤミ煙草の取締りを契機に在日本朝鮮人連盟の群衆が七条警察署を包囲した際、劣勢に立たされた署長側が図越利一に支援を要請。図越組は組員を総動員して警察署内に待機し、署内に突入した集団を迎え撃ちました。激しい乱闘の結果、日本人側1名、連盟側4名から7名とされる死者を出す惨事となりましたが、この「警察をヤクザが守った」という特異な事件を経て、図越組は京都における圧倒的な発言権と治安維持の名分を手に入れたのです。

当時のメディア報道・掲載写真
【検証資料 1】当時のメディア報道・掲載写真(出典:fril.jp)

【会津小鉄会との深い繋がり】三代目再興から五代目・図越利次への継承

図越組の歩みは、京都の伝統的任侠組織である「会津小鉄会」の再生の歴史そのものです。幕末の侠客・上坂仙吉(会津の小鉄)を祖とする会津小鉄の名跡は、二代目・木村浅太郎の死後、長らく途絶えていました。この名跡を1975年に約40年ぶりに復活させ、三代目会津小鉄会会長に就任した人物こそが図越利一でした。

図越利一は自身が率いる「中島連合会」および配下の「図越組」を再編し、名門の看板を背負い直すことで、全国の広域暴力団に対抗できる強固な結束を作り上げました。その後、四代目会長には卓越した経済力と交渉力を持つ高山登久太郎氏が就任し、図越利一は総裁として組織に睨みを利かせ続けます。

そして1997年、四代目の引退に伴い、図越利一の実子である図越利次氏が五代目会津小鉄会会長を襲名しました。かつて京都を制裁した図越組の血脈が、正式に会津小鉄会のトップとして受け継がれた瞬間でした。五代目体制下での図越組は、会津小鉄会を支える直系二次団体「三代目図越組」などとして組織図に名を残し、幹事長などの重職を担う中枢派閥として機能しました。

【組織の変遷データ】会津小鉄会歴代会長と図越組の系譜・勢力推移

昭和の黄金期から平成の取り締まり強化、そして令和の衰退期に至るまで、会津小鉄会と図越組の力関係は時代とともに大きく変貌を遂げました。警察庁の公表データおよび報道各社のアーカイブから、組織体制の変遷と勢力推移を比較・検証します。

時代・代数歴代会長名・主要人物図越組との関係・位置付け組織規模(構成員概数)
昭和中期(1940〜1970年代)初代組長:図越利一
(中島会・中島連合会)
京都・七条を本拠に独立組織として急拡大。警察との関係をテコに京都を掌握。直系・配下で数百名規模(最盛期)
三代目体制(1975〜1986年)会長:図越利一名跡を復活させ、図越組の主要勢力を「会津小鉄会」本部に統合・再編。会津小鉄会全体で約1,500名超
五代目体制(1997〜2008年)会長:図越利次
総裁:図越利一(1998年没)
実子継承により図越家が名実ともに頂点に君臨。二次団体として「三代目図越組」併存。会津小鉄会全体で約700〜1,000名
八代目体制(2024年〜2026年現在)会長:高山誠賢
(四代目・高山登久太郎の実子)
2024年9月に金子利典七代目から継承。図越組の直系組織は事実上の休眠・解散状態。構成員約40人、準構成員約40名
(2025年末〜2026年警察統計)
活動歴および当時の関連ビジュアル記録
【検証資料 2】活動歴および当時の関連ビジュアル記録(出典:auctions.c.yimg.jp)

【実態検証】「図越組の現在」と京都裏社会に遺された痕跡

ネットの検索市場では「図越組 現在」というキーワードが根強く検索され続けていますが、2026年現在の実態はどのようなものでしょうか。結論から言えば、独立した暴力団組織としての「図越組」は、現在ほぼ実体を喪失しています。

暴力団関連資料および関係者への取材によると、五代目体制以降、二次団体として活動していた「三代目図越組(組長・岩田末吉氏、元・初代組長は図越利幸氏)」は、その後の組織改編や代替わり、六代目体制下での内紛・分裂騒動などを経て、直系組織としての存在感を失いました。五代目を務めた図越利次氏も2008年に第一線を退いて引退しており、かつて京都裏社会に威名を轟かせた「図越一族」の影響力は制度的にも人的にも完全に終焉を迎えています。

母体である会津小鉄会そのものの情勢を見ても、激変の嵐の中にあります。2024年9月30日、七代目会長であった金子利典氏と高山誠賢氏が渡世上の養子縁組を行い、四代目・高山登久太郎氏の実子である高山誠賢氏が八代目会津小鉄会を継承しました。この代替わりによって、組織の主導権は完全に高山家の血統と六代目山口組との協調路線へシフトしています。

さらに警察庁がまとめた最新データによれば、2025年12月時点における会津小鉄会の構成員数は約40人、準構成員等を含めても80人前後にまで落ち込んでいます。最盛期に千数百人を誇った大組織も、相次ぐ法規制と構成員の高齢化によって壊滅的な人員縮小に直面しており、下部組織であった図越組の看板を維持・再興する余力は残されていないのが客観的事実です。

一般に知られていない盲点とネットの誤解|「図越組」を巡る3つの真相

昭和のアウトロー列伝やネット上の掲示板では、図越組や図越利一氏にまつわる様々な言説が飛び交っています。しかし、その多くには脚色や事実誤認が含まれています。ここで3つの主要な誤解を是正します。

誤解1:図越組は現在も京都で地下活動を続ける巨大組織である?

これは明らかな誤りです。現代の暴力団対策法および全国で施行された暴力団排除条例により、三次団体・四次団体の維持すら困難な状況です。図越組という名跡は、歴史的な文献や過去の組織図に刻まれているものの、現役の稼働部隊として独立運営されている事務所や専従組員は確認されていません。

誤解2:七条警察署襲撃事件における「警察との共闘」は純粋な義侠心によるもの?

事件が美談として語られるケースがありますが、歴史社会学的な見地からは、極限状態における「利害の一致」に過ぎなかったと分析されています。敗戦直後で治安維持能力を喪失していた地方警察署と、自らの縄張り拡大および当局からの黙認特権を欲した図越組側の思惑が一致した結果であり、ヤクザ組織が治安機構の一部を肩代わりするという、法治国家として異様な過渡期の産物でした。

誤解3:図越利次氏の五代目就任は無血の完全独裁だった?

実子へのトップ継承は一見すると強固な地盤を引き継いだように見えますが、実際には四代目・高山登久太郎体制下で築かれた「経済ヤクザ」路線や他団体との関係性との間で激しい摩擦を孕んでいました。暴対法指定第1号となった指定暴力団の看板を背負いながらの組織運営は困難を極め、その後の六代目継承時の激しい分裂闘争(馬場美次派と原田昇派の対立など)の遠因ともなりました。

公の場での発言・インタビュー報道記録
【検証資料 3】公の場での発言・インタビュー報道記録(出典:auctions.c.yimg.jp)

【プロの結論】暴力団排除と京都社会学から読み解く「組組織」の興亡

図越組の歴史と現在の姿を振り返るとき、そこには単なる任侠の盛衰にとどまらない、戦後日本社会の構造的変容が映し出されています。

かつての京都には、社寺・花街・伝統産業という古い地域社会の隙間に、揉め事の調停や非公式な治安維持を担う集団として博徒が共生する土壌が存在しました。図越利一氏が築いた図越組は、そうした前近代的な「顔役社会」の最後の覇者だったと言えます。

しかし、1992年の暴力団対策法施行、2011年までに全国配備された暴力団排除条例、そしてマネーロンダリング対策や銀行口座開設の厳罰化により、組織犯罪を取り巻く環境は根底から覆りました。「暴力を背景にした調停役」の居場所は現代社会において完全に消滅し、かつて警察と渡り合い、京都を牛耳った図越組の威光も、法治とコンプライアンスの波の前に不可逆な解体を迎えました。歴史を知ることは重要ですが、それは過去のノスタルジーに浸るためではなく、社会秩序がどのように近代化され、健全な法治規範へと脱皮していったかを学ぶための教訓であると言えます。

【図越組】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:図越組は2026年現在も実体を持って活動していますか?
A1:実質的な活動は停止しています。かつて三代目図越組として会津小鉄会の二次団体に位置付けられていましたが、五代目・図越利次氏の引退や度重なる組織再編・縮小を経て、現役の組織としての機能は喪失しています。

Q2:図越利一氏と図越利次氏の関係はどのようなものですか?
A2:実の親子関係(父と子)です。父・利一氏が三代目会津小鉄会会長として組織を再興し、実子の利次氏が四代目・高山登久太郎氏の引退を受けて五代目会津小鉄会会長を継承しました。

Q3:現在の会津小鉄会のトップは誰ですか?
A3:2024年9月30日より、高山誠賢(たかやま・せいけん)氏が八代目会津小鉄会会長を務めています。高山誠賢氏は四代目・高山登久太郎氏の実子です。

Q4:現在の会津小鉄会の規模はどのくらいですか?
A4:警察庁の統計(2025年末時点)によると、構成員数は約40人、準構成員を含めても約80人規模に留まります。かつて千人以上を誇った勢力から大幅に縮小しています。

まとめ:激動の昭和裏面史が語る図越組の真実と今後の展望

京都・七条の街角から生まれた「図越組」は、戦後混乱期の混乱と警察権力との接点を足がかりに巨大化し、名門・会津小鉄会の再興という大業を成し遂げました。創始者・図越利一氏の圧倒的な存在感と、実子・利次氏への五代目継承は、昭和から平成初期の裏面史を彩る象徴的なトピックでした。

しかし時代の趨勢とともに、2026年現在の図越組は歴史の表舞台から姿を消し、母体である会津小鉄会もまた八代目体制下で極限的な規模縮小を余儀なくされています。京都の街に刻まれたその足跡は、戦後日本の法と暴力、秩序と混沌のせめぎ合いを物語る歴史的資料として記憶される段階に入っています。 (出典: 図越組(Yahoo!ニュース)

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