若島津の部屋はどうなった?松ヶ根から放駒への継承と高田みづえの現在

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若島津の部屋はどうなった?松ヶ根から放駒への継承と高田みづえの現在
若島津の部屋はどうなった?松ヶ根から放駒への継承と高田みづえの現在
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🎵 若島津の部屋はどうなった?松ヶ根から放駒への継承と高田みづえの現在

「南海の黒豹」と称され、昭和から平成の土俵を沸かせた元大関若島津(日高六男氏)。大人気歌手だった高田みづえさんとの結婚劇は日本中を熱狂させ、1990年に旗揚げした相撲部屋は、多くの弟子とお茶の間に愛される温かな名門として相撲史にその名を刻みました。しかし、かつて「松ヶ根部屋」としてスタートし、名門「二所ノ関部屋」の看板を掲げたあの部屋が、現在どうなっているのかを正確に把握している相撲ファンは意外なほど多くありません。

「稀勢の里が率いる二所ノ関部屋とは何が違うのか」「若島津親方とおかみさんは今どこで何をしているのか」。ネット上で入り乱れる疑問を紐解くと、そこには伝統ある名門一門の再編劇と、師匠の突然の病魔、そして一門を支え続けた夫婦の絆が交錯するドラマが存在します。2026年の最新状況をもとに、松ヶ根部屋から放駒部屋へと至る継承の全真相を徹底解説します。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 要点1:元大関若島津が育てた部屋の土俵・所属力士・歴史を実質的に受け継いだのは、元関脇玉乃島が師匠を務める現在の「放駒部屋」である。
  • 要点2:伝統の名跡「二所ノ関」は元横綱稀勢の里へ継承され、旧荒磯部屋が「新生・二所ノ関部屋」(茨城県阿見町)として看板を引き継ぐ形となった。
  • 要点3:2017年に脳出血(急性硬膜下血腫)で倒れた若島津は、高田みづえさんの献身的な介護により奇跡的な回復を見せ、定年退職後も穏やかな療養生活を続けている。

【結論】若島津の部屋は現在「放駒部屋」へ|名門継承の全体像

「若島津の部屋はどうなったのか?」という問いに対する最も簡潔で正確な答えは、「元関脇玉乃島の18代放駒親方が部屋を丸ごと引き継ぎ、現在は東京都葛飾区に本拠を置く『放駒部屋』として活動している」という事実です。

相撲界の歴史に詳しくないファンの間で混乱が生じる最大の要因は、「部屋の建物・所属力士の継承」と「二所ノ関という年寄名跡の継承」が別々のルートを辿った点にあります。看板である「二所ノ関」の名跡は第72代横綱稀勢の里へ譲渡されたため、「現在の二所ノ関部屋=若島津の部屋の後継」と誤解されがちですが、血筋として若島津の弟子たちを受け継ぎ、屋台骨を守り続けているのは現在の放駒部屋なのです。

この大がかりな交代劇は、若島津六男氏が2022年1月に日本相撲協会の停年(65歳)を迎える直前、2021年12月の理事会承認を経て正式に執行されました。30年以上にわたり千葉県船橋市を拠点に若手力士を育ててきた若島津の部屋は、看板を「放駒」へと改め、新たな時代へとバトンを繋ぎました。

当時のメディア報道・掲載写真
【検証資料 1】当時のメディア報道・掲載写真(出典:日刊スポーツ)

松ヶ根部屋から二所ノ関、そして放駒へ|30年を超える改称と移転の全歴史

若島津が師匠として歩んだ足跡は、所属一門の看板を守るための激動の歴史そのものでした。1990年2月、二所ノ関部屋から分家独立する形で千葉県船橋市古作に開かれたのが「松ヶ根部屋」です。歌手を引退して角界のおかみさんとなった高田みづえさんの温かな部屋運営と、若島津の情熱的な指導により、部屋は着実に勢力を拡大していきました。

転機が訪れたのは2014年のことです。二所ノ関一門の本家であった10代二所ノ関(元関脇金剛)が停年を前に部屋を閉鎖。一門の象徴である「二所ノ関」の看板が途絶える危機に瀕した際、一門の重鎮となっていた若島津が名跡を買い取り、2014年12月1日付で部屋名を「松ヶ根部屋」から「二所ノ関部屋」へと改称しました。これにより、松ヶ根部屋の弟子たちは名門・二所ノ関部屋の所属力士となったのです。

時代・区分部屋名と師匠所在地・本拠地特徴・経緯のポイント
1990年〜2014年松ヶ根部屋
(師匠:元大関若島津)
千葉県船橋市古作二所ノ関部屋から独立創設。若島津と高田みづえ夫妻が築いた原点の時代。
2014年〜2021年二所ノ関部屋(旧)
(師匠:12代二所ノ関=元若島津)
千葉県船橋市古作本家閉鎖に伴い名跡を継承・改称。一門の本家として看板を死守した時期。
2021年末〜現在放駒部屋(実質後継)
(師匠:18代放駒=元関脇玉乃島)
東京都葛飾区東新小岩若島津停年に伴い部屋・力士を継承。葛飾区に新部屋を建設し完全移転。
2021年末〜現在二所ノ関部屋(新・看板継承)
(師匠:13代二所ノ関=元横綱稀勢の里)
茨城県稲敷郡阿見町旧荒磯部屋を改称。「二所ノ関」の名跡のみを若島津から継承した新設道場。

上記の対比表が示す通り、若島津が手塩にかけて育てた弟子たち(一山本や島津海など)が所属しているのは、現在の放駒部屋です。一方で、茨城県阿見町で大の里をはじめとする精鋭を輩出している現在の二所ノ関部屋は、元横綱稀勢の里がゼロから立ち上げた新鋭部屋であり、系譜としては別系統に位置づけられます。

なぜ稀勢の里が「二所ノ関」を継いだのか?名跡交代に隠された一門の事情

相撲界の内情を知る関係者の証言によると、この継承劇には「相撲界屈指の超名門名跡をいかに未来へ残すか」という、一門全体の高度な政治的判断が働いていました。

二所ノ関の名跡は、大乃国、大鵬、若乃花、貴乃花といった歴史的大横綱を輩出した一大潮流の総本山です。若島津が12代二所ノ関として名跡を保持していたものの、2022年1月の停年退職が迫る中、後継者選びは難航を極めていました。当時、若島津の部屋付き親方として後継指名されていたのは元関脇玉乃島(18代放駒)でしたが、玉乃島は一門の長として君臨するよりも、現場で力士たちの稽古を直接見守る職人肌の親方でした。

そこに浮上したのが、早稲田大学大学院でスポーツマネジメントを学び、角界の近代化を目指して独立準備を進めていた元横綱稀勢の里(当時:荒磯親方)の存在です。日本出身横綱として絶大な発信力を持ち、茨城県に一大相撲拠点を構えようとしていた稀勢の里に「二所ノ関」の看板を託すことは、一門の威信回復を目指す長老たちにとっても最善の選択肢でした。

結果として、「名跡(二所ノ関)は稀勢の里へ譲渡」「部屋の土俵と現役力士は部屋付きの玉乃島が放駒の名跡で継承」という、双方の利害と未来図が一致した円満な名跡交換が行われたのです。

活動歴および当時の関連ビジュアル記録
【検証資料 2】活動歴および当時の関連ビジュアル記録(出典:newsatcl-pctr.c.yimg.jp)

【実態検証】玉乃島率いる現在の放駒部屋|葛飾区移転と若手の台頭

若島津の精神と弟子たちを受け継いだ18代放駒親方(元関脇玉乃島)は、継承後すぐに大きな改革に着手しました。その象徴が、30年以上の歴史が刻まれた千葉県船橋市の旧道場から、東京都葛飾区東新小岩への完全移転新築です。

2022年春に竣工した新・放駒部屋は、力士たちの身体づくりとコンディショニングを徹底的に配慮した近代的な設備を誇ります。都心へのアクセスも良く、相撲ファンや地域住民との交流を深める地域密着型の相撲部屋として生まれ変わりました。

報道各社の取材データや番付推移を見ても、放駒部屋の躍進は顕著です。若島津時代に入門し、素質を開花させた幕内力士・一山本や島津海をはじめとする関取衆が土俵を沸かせています。SNSや大相撲中継の解説でも、「放駒部屋の力士は礼儀正しく、若島津親方仕込みの鋭い押し相撲がしっかりと生きている」と高い評価を得ています。

部屋の看板は「放駒」へと変わったものの、師匠が毎日の稽古場で見せる情熱、ちゃんこ鍋を囲む家族的な温もりは、若島津と高田みづえさんが船橋で紡ぎ出した空気感をそのまま受け継いでいます。

病気から奇跡の生還|元大関若島津(日高六男氏)と高田みづえの現在の様子

相撲ファンが部屋の行方と同じく強い関心を寄せているのが、元大関若島津本人の体調と、おかみさんとして尽くし続けた高田みづえさんの現在です。

時計の針を巻き戻すと、2017年10月、当時12代二所ノ関だった若島津を悲劇が襲いました。船橋市内の路上でサウナ帰りに自転車で転倒し、意識不明の重体で救急搬送されたのです。診断は急性硬膜下血腫。一時は生命すら危ぶまれる極めて緊迫した状況であり、開頭手術を受けた後も集中治療室での闘病が続きました。

この絶望的な状況を救ったのが、妻である高田みづえさんの献身でした。歌手活動を完全に封印し、部屋のおかみさんとして30年以上弟子たちの母を務めてきたみづえさんは、師匠不在の部屋を守り抜くと同時に、過酷なリハビリに付き添い続けました。当時の相撲協会関係者や特番インタビューでも、みづえさんが毎日病院に通い詰め、声をかけ続けた姿が生々しく証言されています。

その甲斐あって、若島津は驚異的な回復を遂げました。車いす生活から自力歩行ができるまでになり、2019年には公の場に姿を見せるまでに回復。2022年1月の定年退職時には、相撲協会の再雇用制度(参与)を利用して「荒磯」親方として協会に籍を残し、無事に大役を全うしました。

2026年現在の様子について、親しい関係者によると、日高夫妻は角界の第一線から身を引き、都内の自宅で穏やかで静かな療養・セカンドライフを過ごしています。かつてのような激しい運動は叶わないものの、みづえさんと共に散歩を楽しみ、テレビで教え子たちの取組を欠かさず応援することが日課になっているといいます。高田みづえさんもおかみさん業を放駒親方の夫人に完全にバトンタッチし、妻として夫の健康維持を第一に支える生活に専念しています。

公の場での発言・インタビュー報道記録
【検証資料 3】公の場での発言・インタビュー報道記録(出典:sponichi.co.jp)

一般に知られていない盲点とネットの誤解

ネット上の掲示板や知恵袋などでは、若島津の部屋と二所ノ関一門を巡っていくつかの典型的な誤解が散見されます。代表的な2つの盲点を是正しておきましょう。

誤解①:「二所ノ関部屋が葛飾区へ移転した」という混同
ネット検索において「二所ノ関部屋 葛飾区 移転」という検索キーワードが見られますが、これは完全な事実誤認です。葛飾区に移転したのは玉乃島が継いだ放駒部屋です。稀勢の里が継承した新生・二所ノ関部屋は茨城県稲敷郡阿見町に新設されており、地理的にも全く別の場所で活動しています。

誤解②:「若島津と稀勢の里の間で部屋の乗っ取りがあった」という憶測
名跡が他系統へ渡ったことで、一部のネット言説では確執や乗っ取りを邪推する声がありました。しかし実際は、若島津の病気による健康不安と定年が近づく中で、一門の存続を最優先に考えた友好的な名跡承継です。若島津自身が納得した上で稀勢の里へ大名跡を譲り、自身の直弟子たちは最も信頼する愛弟子・玉乃島に託すという、極めて計画的で円満な合意に基づいています。

【プロの結論】名門一門の再編劇から読み解く相撲部屋承継の本質と教訓

大相撲における相撲部屋の承継は、一般社会における「中小企業の事業承継」や「老舗の暖簾分け」と完全に相似形をなしています。今回の若島津の部屋の行方が示した結末から、私たちは組織承継における重要な教訓を読み取ることができます。

多くの老舗企業が後継者難で直面するのは、「看板(ブランド名)」と「現場の実務(社員や製造ライン)」を同一人物に継がせようとして共倒れになるリスクです。若島津の英断が画期的だったのは、「二所ノ関という超強力なブランド看板」はそれを最大限に活かせる発信力抜群のトップリーダー(稀勢の里)に委ね、「大切に育ててきた弟子と道場という現場の実態」は現場を愛する職人肌の幹部(玉乃島)に託したという点にあります。

もし若島津が名跡に固執し、準備不足の弟子に無理に二所ノ関の看板を背負わせていれば、一門全体の求心力低下や弟子の育成不全を招いていた可能性があります。自らの病気や定年という避けられないライフステージの限界を直視し、「看板」と「実体」を切り離してそれぞれに最も相応しい後継者を配置したこのスキームは、相撲界における事業承継の最高峰の成功例と言えます。

【若島津の部屋はどうなった】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:若島津が育てていた力士たちは今どこに所属していますか?
A1:元関脇玉乃島が継承した放駒部屋(東京都葛飾区)にそのまま所属しています。幕内の一山本や島津海をはじめとする弟子たちは、現在も放駒部屋の力士として土俵に上がっています。

Q2:高田みづえさんは今でも相撲部屋のおかみさんをしているのですか?
A2:いいえ、おかみさん業は引退しています。若島津の停年と部屋の継承に伴い、おかみさんの座は18代放駒親方の夫人へと正式に引き継がれました。現在は夫である日高六男氏の介護と健康管理に専念されています。

Q3:稀勢の里がいる二所ノ関部屋と、若島津の部屋は何の関係もないのですか?
A3:全く無関係ではありません。部屋の力士や建物自体は別ですが、元横綱稀勢の里が名乗っている「二所ノ関」という名跡そのものは、若島津(12代二所ノ関)から直接引き継がれたものです。同じ二所ノ関一門の本家と分家の関係として、現在も良好な協力体制にあります。

まとめ:今後の動向と失敗しないための判断基準

元大関若島津が情熱を注ぎ、高田みづえさんが愛を注いだ相撲部屋は、消滅したわけでも混乱の中に沈んだわけでもありません。その魂と弟子たちは「放駒部屋」として東京・下町の新たな土俵で力強く息づいており、その由緒ある伝統の看板は「二所ノ関部屋」として茨城の地で新たな黄金期を切り拓いています。

大相撲の歴史を追うファンにとって、「若島津の部屋=現在の放駒部屋」という系譜の正確な理解は、幕内取組をより深く味わうための必須知識です。かつて土俵を彩った昭和の名大関と歌姫おかみさんの足跡は、形を変えてしっかりと令和の土俵へと受け継がれています。 (出典: 若島津の部屋はどうなった(Yahoo!ニュース)

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